田無タワー、僕と布団と時々毛布

要するに東京からお送りしています。いつでも眠い。

言ったと伝わったは別物ですよね、というお話

こんにちは。

いつも私は長々としょうもない話をしているのですが、しかしツイッターの文字数制限では語りきれないので、さらに長々と話をしたい・・・第一弾です。

さて、タイトル通りに言ったということと伝わったということには大きな乖離があると思うのですが、しかし一緒くたにされたり、言ったなら伝わっただろうという悪く言えば怠慢な方が多くいるのかなと思うのです。

例えば牛丼屋に入り着席して‘並‘という言葉だけを発する方は多くいると思います。そして、実情としては店員の方も大概は牛丼の並をもってきてくれるわけです。(松屋さんは食券制ですしあそこは牛めしなのでしりません)ですが吉野家さんにもすき家さんにも豚丼がメニューがあるわけで、厳密なところを言えば並の言葉だけではどちらのどんぶりの並か断定できません。つまり、多分私が意地悪な店員なら一回ぐらいわざと豚丼の並を持っていく気がします。

しかしながら、もし仮に私が豚丼の並をお客さんにお持ちしたらおそらくお客さんは牛丼の並だ!つくりなおせ!となるのは自明でしょう。もっとも私が豚丼の並ですか?と問いかけていたなら別ですが。

この例に限って言えば、言っただけでは必ずしも受け取った側が正しく受け取ったとは限らない。そもそも聞き間違いもよくある話なのでせめて注文時の復唱ぐらいは聞きましょう。・・・ですが。

 

伝わるという観点でいえば、発した言葉のトーンやその際の言い回し、場合によっては人間関係、2者の前提知識の差異などの部分が関わってくるわけです。

https://www.jiji.com/jc/v2?id=kaz_kokubo_06 覚えていらっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、スノーボードの国母選手が服装の乱れを指摘され、その際に、「反省してまーーす」という発言をしたという騒動が過去にありました。この発言からは到底彼が反省してるとは思えないのですが、しかし彼が本当に反省の意思を持ち合わせているかは別として反省の言葉を発しているのは事実といえます。つまり彼が反省の言葉を述べたのは事実であるが彼が反省しているということは伝わってない(もっともあれで本当に心の底から反省していたら彼はずいぶん不器用だと思いますが・・・)わけです。

 

おそらくここまで長々としてしょうもない文章をお読みいただければ、言ったということと伝わったという事象には違いがある、ということはおわかりいただけたと思います。それでもって今回の本題はこの先かもしれません。

私自身は言ったことが必ずしも伝わる必要がないと考えております。もちろん、お客と従業員、あるいは上司と平社員などでは伝える必要が生じますが、友人同士では必ずしも必要ではないと考えます。むしろ伝える必要がない場合まであるのないか、と。

よって、おそらく今後は特定の人に対する私信をこのブログに綴ることになると思います。(さすがにすべての記事ではやりませんが)ただし、私が照れ臭いと感じたり伝える必要がないものの、私が発することで溜飲をさげることができる(要は自己満足)ような記事も多くあると思います。とはいえ宛名を明記して記事を書く気はありません。ZEROです。ゆえにある程度はだれが読んでも理解できるものになると思います。しかし、万が一もし隠れた宛名を読み解くことができた方に関してはさらに深い話をしたり、思い出話をできたら幸いである、と考えております。